Cafe 568 : 五郎八が思ったこと、感じたことを綴る 地熱住宅・五郎八の家
絵を他人に見せ、展示をなぜするのか?


私がはじめて画廊で個展を開いたとき、一人の紳士が入って来て、
おもむろに「この絵は幾らですか」と尋ねられた。
突然のことで私は、質問の意味がよく理解できなかったのである。

当時の私は、「純粋芸術とは何ぞや?」などと大上段を振りかぶっていたものだから、
ある種、心地よさと心地悪さが同居していた。

会場をウロウロとし、画廊主に「この絵の値段を聞かれたのだけれども、幾らにしたらいいのですか?」と聞くと、画廊主も困惑して「額は幾らするの?」などと絵のことには触れもせず。
しばらくして私が「この絵は英字新聞紙にパステルで書いているだけだし」などと、
材料原価の話をしはじめてしまったのだった。
取り付くしまもなく、つまり意味不明に絵の原価計算をしはじめたのである。
しかも真面目にである。

個展の会期が終わりこのときの出来事を回想していると、
「純粋芸術とは何か?」との問が頭をよぎってきたのである。
ここで私なりに回答めいたものを思考したのだが、
お客様がこの作品が欲しいと言われた時に私の作品でなくなることが純粋芸術であると思い、
「観念アート」つまり「コンセプチャルアート」の世界に入っていくのである。

ところが、更に疑問が出てくるのである。
今度は、「なぜ純粋芸術なら作品を人に見せる行為をとらないといけないのか?」
「あくまで純粋芸術と言うならば、他人に見せる必要性があるのか?」
「誰にも見られることができない場所で展示をすることが純粋芸術ではないのか?」
この疑問の答えがなかなか見つからないまま3年間が過ぎてしまった。

答えが見つからないまま伸吟していたときに、
仕事の人間関係で上手くいかない事態が起こってしまった。
相手のことを考慮して、色々と動いていたことが先方は決して快く捕らえていなかったのである。
これをきっかけに、不条理の世界観を思考するようになるのである。

すべての事柄が安定することの条件は、ゼロになることであり、
つまり問題が起こらない方法は行動を起こさないことなり。
しかし、これは死に世界観であるので、我々は生きていることから常に行動を起こしながら
日々生活をしているのである。
ということは、すなわち現世は常に不条理の世界の中で生きていることになり、
相反する事柄や行動・思考が人により、捕らえ方や表現方法が違うのである。

このことから、「生きていることはプラスとマイナスの世界が混在しているのが現世」であることを確信していくのである。
それをこの世界観の公式で表現すると、プラス+マイナス=ゼロになる。
これは私が到達した哲学である。

先ほどの純粋芸術の話に戻るが、この公式に置き換えてみると、
この世は色々な人や事柄があるからこそ安定しているのだと。
だから「何でもある」の世界だから、こだわる必要は何も無いので、
好きなことをすることがすべてなのだと。

「何も無い」ことがすなわち「ある」ことになり、
このことから「摩訶的実存無」の世界が存在するのである。


エコロジー建築家 矢上五郎八

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