Cafe 568 : 五郎八が思ったこと、感じたことを綴る 地熱住宅・五郎八の家



近年、環境問題が取り沙汰されてから、「エコ」や「エコロジー」という言葉を目や耳にすることが多くなりました。
一種のブームになっている懸念があります。
提供者がブームをつくり、消費者が踊らされてしまうという縮図は、過去に幾たびもありました。

「エコ」・「エコロジー」を一言でいうならば「思想哲学」です。
このなんとも難しい「思想哲学」なるものを簡単に理解する方法があります。
それは毎日の生活の中にあるのです。
しかし、なんの問題定義も持たずに日々の生活をしていても、そこにはエコやエコロジーの哲学は生まれてきません。

私が思考する「エコロジー」とは、「生から死へ、死から生へ」、つまり生命あるものは必ずなくなり、
命なくしたものは、次の生命体への準備をしなければなりません。
自然界では、「生命体への準備」がごくあたり前に行われていますが、
人間は「電気」というエネルギーを発明してからその準備を怠ってきたので、
今日、地球上のいたるところで病が出てきています。
それは人間の体だけではなく、人間の「心」にもです。

ベンジャミン・フランクリンが凧をあげて雷の実験をしたのが1752年、
トーマス・エジソンが白熱電球を発明したのが1879年。
「電気」というエネルギーが確立されて、100年以上が経ちした。
この100年の間に、自然界になかった「人造化学生命」がつくり出されたました。
「人造化学生命」は自然界に帰ることができなくなり、浮遊しつづけているのです。

その浮遊の一部が人間の体内に食品や衣類・室内空気・地域環境・地球環境のルートで入り込み、悪さをします。
「シックハウス」や「化学物質過敏症」がそうです。
ドイツの生物学者・毒物学者のウラ・エガース博士は、化学物質の種類は最近の報告で1500万種類にのぼるといいます。
その中で、人に対する毒性や環境に及ぼす影響について、ある程度知られているのは約0.1%(1万5000種類)。
ほとんどの化学物質については、どのような影響を及ぼすかわかっていないので、
今後、思わぬ被害にあう危険性があります。

すべての生命は、環境によってつくられます。
私の生まれは、九州山脈の山深いところで、
今、ダム問題で騒がれている川辺川沿いにある人口6000人ほどの小さ山村です。
原体験がこの自然が多い中で育ったので、住宅をつくったり、趣味においても自然志向が強くなり、
工業製品よりも自然素材、人の多い都会よりも田園風景の多い田舎に惹かれます。

ところが「自然」や「田舎」というのは、実際に生活をすると非常に厳しく、ある種の「戦い」みたいなものがあります。
この「戦い」に心地よさを感じなければ、自然との付き合いはできません。

私の田舎には昭和20年代になっても電気が来ていなかったので、
居間には囲炉裏が切ってあり、天井から自在金具で鉄鍋や鉄瓶が下げてありました。
台所はたたきの土間で、そこにかまどや水流し場があり、そばにかまどの焚き付けに使う杉や落ち葉、
油分を含んだ松ノ木の根っこが置いていました。
谷川から水を汲み、陶器の水瓶へ運ぶのが子供の仕事でした。
夜になると、ロウソクを使った行灯が枕元にあり、その明かりで少年漫画などを読んでいましたが、
もう行灯も死語になる時間がすぐそこに来ているように感じられます。

南国なので氷が珍しく、冬に水瓶にはる氷を食べながら学校に通ったものです。
夏には男の子も女の子も川遊びをするのですが、川に足を入れると小魚が足をつつきに来るのです。
喉が乾けば川の水を飲み、お腹が空けばスイカやナス、キュウリなどを川に入れて冷やして、
みんなで分け合い食べたものです。

人類が生活をしていない時代からあった悠久の財産である「自然」。
今、唱歌の中に出てくる「春の小川」がイメージできますか?
日本の河川のほとんどが「川」ではなく、「排水溝」になってしまったのです。
この世界に類を見ない風光明媚な自然が、ごく一部の政治家や官僚の手により、
だれも反対できない「国民の生命と安全を守る治水事業」という、ごまかしの名のもとにおいて、
癒着構造の標的にされてしまったのです。
もし、豪雨によって河川が氾濫し危険があれば、危険な場所を察知し、そこに安住地を構えなければいいのです。
これから税金を投入し、排水溝と化したら本の河川を「春の小川」に変えてほしいものです。

つまり「エコライフ」とは、「心地よい自然との戦い」ではないでしょうか。
この「心地よい自然との戦い」を将来の人に受け渡す意味でも、今それぞれの職業に就かれている立場で、
「なにができるか」を真剣に考え、準備をしなければなりません。
その「場」と「刻」がやってきたのです。


エコロジー建築家 矢上五郎八
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